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1930年代生まれ

新町在住

男性

のお話です。

戦中〜終戦当時の太宰府小学校

戦時中も時代の大波に太宰府も巻き込まれていた。
太宰府小学校は終戦直後の2ヶ月間、捕虜収容所だった。
昭和20年、戦時中は校庭は芋と大根畑に開墾されていた。
捕虜(アメリカ人)が20人弱太宰府小に収容されていた。
昭和20年の福岡大空襲で場所がなくなったため、太宰府小学校に収容所を立てるために、それを手伝うために先発隊として20名の捕虜が派遣されていた。当時空いていた太宰府小学校に決定した。
それがS20年の6月であったので、終戦までの2ヶ月間のみ利用していた。
先生たちは、軍刀を常に下げて授業にあたっていた。

防空壕が筑紫台高校の下(太宰府小のバックネットの裏側の山)に掘られていた。
当時3棟建物があり、一番奥の建物(現在の1棟)が捕虜収容所となっていた。
当然、囲いがされており、その囲いの塀を登ったこともあるという武勇伝もあるとかないとか。

当時の子どもたちの仕事は、牛や馬の後をつけていって、馬糞広いをし畑にまくことであった。
当時は肥料もなかったため、野菜作りのため馬糞は大事なものであった。
農家の家には、牛と馬が必ずいて、かつての梅上げは牛が引かずに馬が引いたこともあったという。
当然、人糞も肥料に使われているため、授業中に回虫が口から出てくる子供も珍しくなくむしろ日常の風景だったという。

戦時中、8:30になったらまずは太宰府天満宮にお参りをしていた。
そこでラジオ体操を行い、本殿前で「戦勝祈願」するというのが朝の日課であった。
授業はほとんどなく、剣道や柔道など体を鍛えることがメインであった。
食料が少なかったため、ラジオ体操中に倒れる子供も多かった。
イモメシや大根飯ならまだコメが入っているからよかったほう。
キビ飯/コウリャン飯(キビを米の代わりに)がほとんどであり、給食はなく、弁当を持ってくる子供はごく一部であり、自宅に帰って食べるかたべないかという状況であった。

当時の遊びといえば、縄跳び、コマ回し、竹馬、パッチン(メンコみたいなもの?)が流行っていた。
女性はおはじきが多かったという。

規律はとても厳しく、「全体責任」といって集合にひとりでも遅れてくると全員がバツ(会心棒で・・)を受けた。

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