1930年代生まれ
新町在住
のお話です。
昭和30年代までのお風呂事情
昭和30年代ぐらいまでこのあたりには「共同風呂」=「もやいぶろ」に入っていた。
形は五右衛門風呂。井戸からつるべをつかって水を汲み、孟宗竹を半分に切った水路で風呂場まで水を通していく。あるいはバケツで水を何杯も水場から運ぶが必要があった。
毎日入れるわけではなく、数日に1回程度であった。
近所3−6件で集まって風呂をつくり、代わる代わるはいっていた。
このあたりだと、新町3件ぐらい、参道、連歌屋、にあった(風呂屋として認知されている)
風呂は使い終わったら大量に水を流す必要があるが、当時は下水がない。そうなると、風呂の水は裏の畑部分に流したり、あるいは、家の境界を通って川に直接流すしかなかった。なので、毎日流すと畑の場合はぬかるんでしまうので、毎日は入れないということであるし、井戸は各家にもあるところはあったが、共同の井戸を使っていて、当時の井戸は手掘りで6-8mの深さで水が湧いていた。(今は20mぐらい)昔は虫がいようが、火を通せば大丈夫(笑)保健所もない時代の話です。
2年に1回ぐらいは底の砂を取る必要があり、石で周りを固めたところを足場にして作業をしていた。
思い出せるのは、池之端は共同井戸、五条も道端に共同井戸があった。